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北海道滝川市に誕生。先祖は札幌の赤れんが道庁の土台の石工の頭領として新潟からこの「蝦夷地」北海道に渡る。以来1世紀以上にわたり石に関わる仕事に従事する家に生まれ育つ。両親はもとより祖父母にも愛されて、相撲好きの祖父とは、幼少のころから相撲をして遊ぶことが多かったせいか、力を出すことが、めっぽう大好きで、今想うと足腰が強くなった原因はそのときから来ているのかと思う。ちなみに大横綱北の湖のポスターは今も部屋に貼ってある。
滝川市は北海道の中でも有数の大雪地帯で自我に目覚めるころには、すでにスキーを滑っていた。小さい頃の遊びは当然、雪遊び。プラスチックのミニスキーはみんなの共通の遊び道具。ミニスキーを履いて友達と競争をしたり、犬の散歩もミニスキーである!
両親や親族がスキー好きだったので、よくみんなでスキーに出かけた。負けず嫌いな親戚の叔父やライバルのいとこが身近にいて、一時期は基礎スキーを志したが、綺麗なスキーよりもアグレッシブなスキースタイルに自分だけなぜか集中。 18歳のときに、その後、モーグル界のトラの穴?と呼ばれるようになったニセコのロッジロンドに居候をし、
当時全日本のモーグルトップの喜田さん・玉置さんに出会いモーグル競技に参戦することとなる。
当時、モーグルはものすごくマイナーな競技であり、オリンピック種目でもなく、スキーが大好きな人たちの中でも知っている人が少ない競技だった。
しかし、初めてモーグルに出会ったときに、この競技は「これからブレークする」という妙に自身のある予感がした。その後、里谷多英選手の長野での金メダルにより予想外の大ブレークとなった。 |
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その後、86年から92年の7年間ナショナルチームに在籍 。89年、90年、92年度の3度フリースタイルスキーモーグル全日本選手権1位 。89年パンパシフィック大会1位(日本人としては国際大会初優勝)。 90年ワールドカップレイクプラシッド大会12位(日本人初の決勝進出)。 90年ワールドカップ猪苗代大会9位(日本人初の一桁順位)。 91年ワールドカップツェルマット大会16位 。92年アルベールビルオリンピック出場(この大会より正式種目になり日本人唯一人出場)。
その後プロとして活動 。94年、98年の長野オリンピックではモーグル解説者。『やったータエ』でお茶の間を沸かせた。現在のベースはニセコ。 札幌オリンピックのときに夢見たオリンピック選手になったことでモーグル競技に対してはやりつくした感をもちつつ全日本選手権3度目の優勝を引退の花道とする。 |
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引退後は、モーグルキャンプやテレビ、ビデオ等に出演したり、そのときにはまだマイナーであったパウダースキー(フリースキー)の分野を開拓し、ニセコをベースとして活動するが、モーグルのエキシビジョンで、根っからの目立ち根性のために?膝の怪我をし、自分の思うようなスキーができなくなったために、スキーシーンからその後遠ざかることとなる。しかし、ある人と出会い、
「人間の体というのはトカゲの尻尾と同じように、あなたの膝の軟骨は生えるよ!」
と言われたことをあっさり信じてからは、膝も復調。
2005年シーズンには
自分でも過去最高のスキーが出来るようになり、
今後は今までの経験を生かし、世界から注目される
インターナショナルリゾートニセコをベースとし活躍していくのだ、
と固く決意し、現在に至っている。 |
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